記憶がひとつの点だとすれば、記憶の点が点点点・・・・・・となってひとつの線...

記憶がひとつの点だとすれば、記憶の点が点点点・・・・・・となってひとつの線になっているかもしれません。それもドラマのように、映画のように繋がっている。

認知症が方は、この記憶の「点」が途中で途切れているような、あるところで抜け落ちているような、一方がドラマなら、認知症の方の記憶はコマーシャルのような感じなのかもしれません。

30秒まえのTVのコマーシャルなんて覚えてもいません。そんな状態が持続するのだから、不安にならないはずがないと思う。

抽象的だけと、この点・点・点を線にするような介護がしていきたいものです。

私たちは、日常生活において次に何をなすべきなのか意識的(無意識かもしれませんが)に判断することを繰りかえしています。

それが難しくなってきくる認知症の方には、言葉や動作で伝えるなどの「うながし」が必要なケアとなります。私たちは、日常生活において常に次になすことを意識的、あるいは無意識的に判断し行動している、じつはそれを繰り返しています。繰り返しの連続です。

認知症の方は次に何を行なえばいいのかわからなくなるときがあります。そんな時は支援者の言葉や動作でのうながしがとっても必要なってきます。うながしがどんどん必要となってきて、支援者の「うながし」で、様々な行為がうまくいきその「行為が継続」できれば、もしかすると安心につながっていくのかもしれません。行為を行うことで認知症の方が抱く、安堵感、うながす支援者という存在が、うながされる認知症の方にっとても安心につながるのではないだろうか。

逆に、うながされ、その行為がうまくできなかったときの失敗や支援者がみせる視線や非難によってどうにもならない感情がわくのだろうと思います。それが持続すると「うながし」を「拒否する」ようになるのだろうと思います。認知症は支援者の対応ひとつで作れるのかもしれません。うながすということと、うながされるということはどのような関係があるのかを考えていく必要があるのかもしれません。

時間の見当識障害は記憶障害を背景に早期に出現してきます。

いまがいつなのか

すなわち時刻や日付、季節、年がわからなくなる

時間の見当がつけられなくなる

時間の見当がつけられなくなったときどのような気持ちになったり、どのような行動をとるのだろうか

たずねるようになる

「もうそんな時間になっていたのか」

「まだ朝だと思っていた」

「夕方なのか」驚いた  不安

「今この時間に行かなくてはならいところがあるのではないか」必死になって考えるではないだろうか。不安を繰り返し感じるようになる。

僕も休みに日に昼寝をして、ぱっと飛び起きる時があります。けれども時計をみて、窓の外をみて、「まだ3時だ、夕方かと思った」と時間を確かめる時計や日の光などの「時」を確認できるものを探しだして、確認して、安心します。だから、あさ目覚めたときも、時計で時間を確認して、「もうちょっと大丈夫」と思って、今まだ寝ててもいいと確認して安心してもうちょっと寝ます(これがやばくて遅刻しそうになるのですが)。けれども時間の見当がつけられない認知症の方にとっては、寝ても起きても、「今ここにこうしていいのだろうか」という「今ここで」を確認、判断することができずに、不安になっている、仕事にいかなくてはとあせっている、子供にごはんを食べさせなくてはと自分をせめ、なんとかそれをしようとする。だから、夜中でも不安になる。「今ここでこうしていい」と思い、抱くけるような「対応」が必要なのだろうと。嘘でもいい、当の本人が納得できるようなことで。

時間の見当職障害のない人は、目がさめたとき、視覚、聴覚などの感覚機能を発揮して時計やカレンダー周囲の明るさなどの時間に関する情報をもとに次の行動をとっている。したがって障害のない人は、睡眠のあとは爽快な気分になるのはそこでの判断ができているから、そうでないので目が覚めたときに今何時なのかわからず不安になる。私たち、今この瞬間 何月何日で何時何分と見当をつけているので、「今ここでこうしていてもいい」と判断しているが、見当がつかなくなると「こどもがおなかをすかせている」「仕事へいかなくては」無断欠勤、「大切な交渉がある」と感じるようになる。

時間の見当機能は「今こうしていいのだ」という自分の安定基盤をつくってくれている。

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